Thoughts at 3AM.

記憶の補完

おとな

 

時計の針が頂上で再会した。

日付は変わり28日の文字が待ち受け画面に踊る。

 

僕は今誕生日を迎えた。

三日坊主になりがちな僕でも年齢だけは生まれてから一度も欠かさずに着実に重ねていっている、この勤勉さを他のことにも生かせればいいのだが。

今年で歳を取るのも二十回目だが、いまだに慣れることはできなくて23:59までの自分と00:00からの自分に明確な差を見いだせないままカレンダーに背中を押されるように齢を重ねる。

 

幼い頃は20歳になったらいろいろなことができるようになって大人の仲間入りをするものだって思っていたけれど、そんなことはなかった。

社会的な責務は増えたのかもしれないがRPGのようにレベルが上がって使える武器が増えたわけじゃなかった、ただ昨日と同じ風景が見えて、昨日と同じ血液が同じスピードで全身をまわっている。0:00分を少し過ぎて、20歳も19歳の延長線上にあるだけでただの目盛に過ぎないことを確信した。

 

20歳は大人の仲間入りと書いたがそもそも「おとな」ってなんだ。

 

来年の1/11日の成人式は「おとなになったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を励ます式」なのではやくその言葉の意味をつかまなくてはいけない。

 

おとな:十分に成長した人(広辞苑

 考え方、態度が老成しているさま(広辞苑

 

この解釈をすると、まだまだ20じゃおとなには早すぎるし80になってもまだ「こども」でいる人も沢山いるだろう。

 

極めて観念的である「おとな」について書いてある本を読んだり、辞書を引いたりするうちに腑に落ちたり落ちなかったりしたがそのなかで自分なりの「おとな」という言葉との距離、付き合い方が分かった気がするのでここに書いておく。

 

「おとなになる」とは自分の考えを行動に移すときに、おとなだったらまず何をするか、おとなだったらこの場でこんなことをするべきなのか、と一瞬胸に手を当てて立ち止まることができるようになることだと思う。

 

自分がそのときに思いついた理想のおとな像は間違っていてもかまわないが、間違いに気づいたときには未熟さを素直に認めると同時に、そのときに応じた最新の理想のおとな像へとバージョンアップする謙虚さが必要とされる。

 

「おとな」というものは永遠の努力目標なのかもしれないが、20歳になった以上は追っては消える陽炎のようなその存在に手を伸ばし続けたいと思う。

 

ここまでの自分をかたちづくってくれた友人たち、あたたかく受け止めてくれた家族たちへの感謝の気持ちを忘れずにあしたからまた生きていきたい。

 

 

ありがとう